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甲府地方裁判所 昭和35年(ワ)41号 判決

原告

久留美和子

外四名

被告

保坂孝夫

外一名

主文

1  被告等は、各自原告久留美和子に対し一、一七〇、〇三七円、原告久留文子、同敏弘、同美喜、同由美の四名に対して各五三五、〇一八円及びこれらに対する昭和三五年二月二一日から各支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

2  原告等のその余の請求は、いずれも棄却する。

3  訴訟費用は、被告等の負担とする。

事実

第一、原告等の申立及び主張

原告等訴訟代理人は、「被告等は、各自原告美和子に対し一、四一一、七〇三円、同文子、同敏弘、同美喜、同由美に対して各六五五、八五一円及びこれらに対する昭和三五年二月二一日(被告孝夫に対し本訴状の送達された日の翌日)から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、原告美和子は故久留康生(昭和三四年一一月二八日死亡)の妻、その余の原告等はいずれも父久留康生、母原告美和子の間に出生した子であり、原告文子昭和二七年一一月一六日出生した長女、同敏弘は同三〇年一一月六日出生した長男、同美喜は同三四年七月一三日出生した二女、同由美は同日出生した三女である。

二、被告会社は主として製材及び木材の売買を業とする会社であり、被告孝夫は昭和三四年二月一日以来右会社に雇傭されている自動車運転手である。

被告孝夫は昭和三四年一一月二四日午後六時頃、被告会社所有のマツダ三輪自動車(山梨6ぬ七一五四号、以下三輪車という。)を運転して材木運搬の帰途、県道石和停車場線(有効幅員七・三五米舗装道路)を石和町から停車場方向に向い走行中、右県道上の県道と町道石和堤線とが交叉する地点附近において、県道上を自転車に乗り運行中の康生に自己の運転する三輪車を衝突させて跳ね飛ばし同人に対し頭蓋底部骨折右側頭部挫創等の傷害を負わせ、その結果同月二八日同人を意識不明のまま死亡するに至らせたものである。なお被告孝夫の疾走して来た県道は平坦直線にて極めて前方の見通しよく、かつ完全舗装の道路である

三、およそ、自動車運転者たるものは自動車操縦にあたつては前方を注視し必要に応じただちに停止又は徐行して公衆に危害を及ぼさないような速度及び操縦方法をもつて自動車を操縦すべき法律上の義務があるのに、被告孝夫はこれを怠り、飲酒の上法定の三輪自動車の最高速度の制限を超えて自動車を疾走させ、かつ前方道路上に対する注視を怠つた結果右衝突をひき起こしたものであり、久留康生の死亡は明らかに被告孝夫の過失によるものといわなければならない。しかも右衝突は、被告孝夫が被告会社の木材を油川地区のとくい先の上棟式に納入した帰途に発生した事故であり、被告会社の業務執行についてされたものであるから、被告会社は使用者として被告孝夫の行為による損害を賠償すべき義務がある。

四(一)、康生(大正一〇年九月二〇日生)は甲府中学、早稲田大学理工学部を卒業の上、昭和二二年から甲府市伊勢町所在の武田食糧株式会社に勤務し、死亡当時同社製造課長の要職にあつた。同人の右会社から支給される給与は死亡当時、基本給、出勤手当、役付手当、特別手当を含め月額二七、三五〇円(超過勤務手当等の基準外賃金を含まない。)であり他に賞与として年額四七、〇〇〇円を支給されていたものであるから年額三七五、二〇〇円の収入を得ていたものであり同人の生活費は一か月七、〇〇〇円年額八四、〇〇〇円を要するものであるから、同人が死亡することなく生存を続けるとすれば毎年二九一、二〇〇円以上の余剰を挙げうるものといわなければならない。一方武田食糧株式会社の就業規則によれば会社の退職定年は五五歳であるが、技術者は得難い存在であるため、定年後嘱託として再雇傭し、六五歳迄勤務させ原給と同様の給与を支給する例となつており、康生は学歴もあり製造課長として技術面一切を統括していたうえに人望も厚く、同社々員として極めて重要な人物であつたので、同人も六五歳(厚生省統計調査部作成の昭和三一年生命表によると同人の死亡当時の年令による平均余命は三二・二三年でありこれを加えると同人は六五歳より長期間生存するものと推測できる。)までは少くとも右の給与を支給されるものと考えられる。そうすると同人は死亡当時の三八歳二月から六五歳まで二六年一〇月間一年間二九一、二〇〇円の割合で計算した得べかりし利益を有したものといわなければならない。これを死亡時において一時に支払をうけるものとしホフマン式計算法により年五分の割合の中間利益を控除して計算するとその金額は三、三三五、一一一円に達する。したがつて同人は被告各自に対し右と同額の損害賠償債権を有していたものというべきであり、原告等五名は右康生の遺産相続人であるから、右康生の被告両名に対する損害賠償請求債権を死亡と同時に承継取得したものであり、その相続分は前記計算額に従うと、原告美和子一、一一一、七〇三円、同文子、同敏弘、同美喜、同由美の四名はいずれも五五五、八五一円であるところ、原告等は本件につき自動車損害賠償保障法により昭和三五年三月保険金三〇〇、〇〇〇円の支払を受け相続分にしたがつて、原告美和子一〇〇、〇〇〇円、その余の原告四名は各五〇、〇〇〇円宛を受領した。したがつて右受領額を控除すると原告等の相続した各損害賠償請求額は原告美和子一、〇一一、七〇三円、その余の原告四名各五〇五、八五一円となる。

(二)  本件事故当時康生は、原告等五名を含めた一家の生活の中心であり、同人の死亡によつて残された原告等の生活は甚しい危機に直面し、差当つて今後の生活の見通しすらつかない。しかも康生は近隣の模範となる善良な市民であり、良き夫、良き父として精神的にも原告等の最大の庇護者であつたことからすれば原告等のうけた精神的苦痛ははかり知ることができないものといわなければならない。従つて右に対する慰藉料は原告美和子に対して四〇〇、〇〇〇円、その余の原告等については、それぞれ一五〇、〇〇〇円に相当すると考える。

よつて、原告等は被告等に対し前記のとおり請求をすると述べ

被告等の主張事実に対する答弁として

(一)は否認する。被告等は、康生が狭い町道から広い県道へ出るに際し前方を注視せず、かつ徐行又は一旦停止して広い県道にある被告孝夫の三輪車に道を譲るべき義務を怠つたと主張するが、本件事故発生当時施行の道路交通取締法(昭和二二年法律第一三〇号、以下旧道交法という。)第一八条第一項には狭い道路から広い道路に進入しようとする車馬又は軌道車は被告等主張のように徐行または一時停車をするべく定められているが右法条は、同法第一六、第一七条の特則であり本件においては狭い道路を進行してまた康生は既に交叉点に進入しているのに被告孝夫の三輪車はまだ交叉点の手前にあるのだから、同三輪車には優先通行権がなく、かえつて、同被告は同法第一七条第一項に従つて康生の自転車に道を譲るべき義務がある。その他被告等が康生に過失ありと主張して挙示する各事由は、いずれも被告等の独自の見解に基くものであつてもとより理由がないと述べ

被告会社の主張事実に対する答弁として

(二)のうち、被告会社が被告孝夫を昭和三四年二月一日に運転手として雇入れたことは認めるが、その余は否認する。被告孝夫は昭和三二年から交通違反の罪を犯して二回罰金刑に処せられ、うち第一回の罰金刑は昭和三二年五月一一日確定し、第二回の罰金刑は昭和三四年二月九日確定しているのにかかわらず、被告会社は、被告孝夫が昭和三〇年七月に免許証の交付を受けてから本件事故当時まで無事故であつたと主張しているのであつて、右主張に徴するも、被告会社は被告孝夫の選任監督について無過失であるとはいい難い。蓋し被告会社は昭和三四年二月一日被告孝夫を運転手として雇傭するに当り、同人の免許証の呈示を求めさえすれば、右第一回の罰金刑の原因となつた交通事犯の前歴あることをたやすく知り得たはずであり今日に至るまで前記二回にわたる交通事犯の前歴を知らないで前記主張をする被告会社は選任監督について相当の注意を払つたということはできないと述べた。

第二、被告等の申立及び主張

被告等訴訟代理人は「原告等の請求を棄却する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決ならびに担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求め、答弁として、原告主張事実中、一は認める。二のうち「県道上を自転車に乗り運行中の康生に自己の運転する三輪車を衝突させてはねとばし」とある部分を除き、その余は認める。康生は自転車に乗車したまま被告孝夫の操縦する三輪車と同方向へ突進したため、電柱の支柱に衝突した右三輪車のあおり(風圧を喰つて自転車を転覆させ、その瞬間舗装道路上へ投げ出されて負傷したものである。なお、事故当日の日没時は午後四時半頃なので事故発生の時は完全に日が暮れてあたりは闇に包まれていたものである。三のうち、自動車の運転者が原告主張のような注意義務を課せられていること及び被告孝夫が被告会社の業務の執行のため同会社の木材を油川地区のとくい先へ納入した帰途に本件事故が発生したことは認めるがその余は否認する。事故発生直前、被告孝夫は県道の中央部よりやや左側を制限時速を超えない時速三五粁位で進行し、前照灯を照射しつつ前方を注視していたところ、県道と町道石和堤線との交叉点附近から約二一米手前において自転車に乗り右町道から県道西側へ現れた康生の姿を認めたので約四米程進行したのち減速し警笛を鳴らした。それにもかかわらず康生は一向に振り向きもしないで、そのまま北方石和停車場方面に向けて進行する気配であつたが、突然ハンドルを右に切り、県道を横切つて東方の野道へ抜けようとするように見えた。そこで、被告孝夫は直ちに三輪車のハンドルを右に切り康生の自転車を避けながら先んじて右野道へ逃れ去ろうと試みたが逃げきれず、県道の東端の電柱(電信電話公社岡部支一七号)に車体を衝突させ、車体は野道北側の側溝上に転覆したものである。

その際三輪車に近接した康生の自転車があおりを喰つて転倒したものであり、被告孝夫としては、自動車運転者として通常必要な注意義務はすべて果しているから過失の責むべき点はない。四の(一)のうち厚生省統計調査部作成の昭和三一年生命表によると、康生の死亡当時の年令による平均余命が三二・二三年であることは認めるが、その余は否認する。

(四)の二は否認すると述べ

被告等の主張として

(一)  康生は幅員のより狭い町道からより広い県道へ進入するに当り、前方を注視せず、かつ同所が交通整理の行われていない交叉点であるのに一時停止又は徐行して広い県道上にある三輪車に道を譲るべき義務を怠り、また接近してくる三輪車の進行に注意しないでその進路を横切り事故発生に至るまで自転車から降りなかつたというような過失のかどがあるので康生は本件事故発生につき重大な過失がありこのことは損害賠償額の算定につき充分斟酌されなければならないと述べ

被告会社の主張として

(二)  被告孝夫は、昭和三〇年七月二〇日運転免許証の交付を受けて以来本件事故当時まで無事故であり、被告会社は被告孝夫を昭和三四年二月一日自動車運転者として雇入れ、給与は一日三五〇円、勤務時間は午前七時半から午後五時までと定めて使用していたものであり、被告会社は被告孝夫の選任につき相当の注意を払い、また日常の運行事務執行についても相当の注意を尽してきた。現に本件事故当日、被告孝夫が被告会社事務所を出発する際、代表取締役松田友康は所用のため外出不在であつたが、取締役たる右友康の妻松田志げるが被告孝夫に対し「上棟式なので祝酒を出されるかも知れないが一杯だけ頂戴してそれ以上は飲まないように」と注意を与えていたものである。従つて、被告孝夫に過失の責任があるとするも、使用主たる被告会社は法律上責任がないと述べた。

第三、証拠関係(省略)

理由

一、原告主張一の事実は当事者間に争がない。

二、被告会社が主として製材及び木材売買を業とする会社であり、被告孝夫は昭和三四年二月一日から被告会社に雇傭されている自動車運転者であるところ昭和三四年一一月二四日午後六時頃被告会社の業務執行のため木材を油川地区のとくい先の上棟式に納入した帰途、被告会社所有の三輪車を運転して県道石和停車場線(有効幅員七・三五米舗装道路)を石和町から停車場方向に向つて走行中、右県道上の県道と町道石和堤線とが交叉する地点附近において県道上を自転車に乗つて走行中の康生との間に人身事故をひき起し(右事故が被告孝夫あるいは康生の過失に基くか、あるいは不可抗力に基くか争の存するところであるが、しばらくおく。)、右事故により康生が頭蓋底部骨折、右側頭部挫創等の傷害を蒙り、その結果同月二八日意識不明のまま死亡したものであること及び被告保坂が事故当時疾走してきた県道が平坦直線で極めて前方の見通しがよく、かつ完全舗装の道路であることはいずれも当事者間に争がない。

三、本件事故が被告孝夫の過失によるかどうか及び康生が道路上へ投げ出された原因は何かについて考えるに、成立に争のない甲第五、第六号証の各一ないし九、同第七号証の一、二(同第七号証の一、二の原本の存在は争がない。)証人須田芳三、古屋政幸、古屋敬明、竹内忠の各証言、鑑定証人佐藤通雄の証言ならびに検証、鑑定及び被告保坂孝夫本人尋問(右本人尋問の結果中後記不採用部分は除く。)の各結果を総合すると、本件事故直前、被告孝夫は右県道における自動三輪車の最高速度の制限を超え時速四二粁を若干上廻る速度で県道上を南から北に向い走行し前方路上に対する注視をおろそかにしたまま前記交叉点に進入すべく進行中、前方約一九米の附近を康生が町道石和堤線から自転車に乗つて県道上に進入しているのを発見した。かかる場合自動車運転者たるものはよく前方を注視し、殊に自転車塔乗者の動静に注意を払い、必要に応じ直ちに停車できる程度に減速し、進行中の自転車塔乗者に不測の危害を及ぼさないような速度及び方法をもつて操縦すべき法律上の注意義務があるのに、被告孝夫はこれを怠り、前方の自転車の動静に対する注視をゆるがせにしたまましかも減速の措置を講ずることなく同一速度で更に七米程北進したところ前方約一二米の附近を康生が自転車に乗つたまま県道東方の野道へ向い、三輪車の進行前方の県道を横断しかかるのに気付き、とつさに危険を感じ事故の発生を避けるべくブレーキを二回続けて踏み(当時、被告孝夫の運転する三輪車の制動装置ブレーキをダブルに踏まなければ急停車できないような状態のまま放置されていた。)ブレーキを掛けたままハンドルを右に切つて前記野道方面へ逃げ去ろうとしたが及ばず、三輪車の左側後輪は約二一・三米、右側後輪は約一四・六米それぞれスリツプ痕を残して前進を続け県道東端附近に存する電柱(電信電話公社岡部支一七号)を地上二・三米のところで折損したうえ県道東側の溝の上に顛覆したが、前記右曲りのハンドル操作の結果、三輪車の後部車体が大きく西方にふれ、前記ブレーキをかけた地点から約一八米北方の県道上において三輪車の西側に近接した康生の乗車中の自転車の後部泥除附近に三輪車の車体を激突させその衝激によつて右自転車を康生もろとも北方約七・八米から一〇米附近の県道東側へ跳ね飛ばして、アスフアルト舗装道路に激突させ、よつて康生に対し前記傷害を与えた結果死に至らせたものであることを認めることができる。被告保坂孝夫本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用し難く、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

四、過失相殺の主張について考察するに、被告等は康生が狭い町道から広い県道へ入るに当り徐行又は一時停車して広い道路上の三輪車に道を譲らなかつた点に過失があると主張するが、本件において、被告孝夫の運転する三輪車が広い道路を進行してきたところは前方の交通整理の行われていない交叉点内に康生が自転車に乗つて既に進入しているのを発見したものであり、かかる場合旧道交法第一七条第一項に則り、被告孝夫運転の三輪車は、右自転車の進行を妨げてはならないものであり逆に自転車において三輪車のため進路を譲らなければならない義務あるものと断じ得ない。よつて被告等の主張は理由がない。被告等は康生が三輪車の進行に注意せずその進路を横切ろうとし、また自転車を降りなかつた点に過失があるとも主張するが、前顕各証拠によれば、康生が町道から県道へ進入する際、県道北方への見通しは可能であつたが、その南方への見通しは建物に妨げられて不可能であるため徐行して交叉点に入り、その直後三輪車に気ずいて避けようとしたが及ばず、被告孝夫の前記過失ある行為により衝突させられたものであることが認められるのであり、康生に被告等の主張のような過失ありというを得ない。よつて、過失相殺の主張は理由がない。

五、被告会社が被告孝夫の選任監督につき相当の注意を尽したかどうか考察するに、証人松田志げるの証言によると、本件事故当日、被告孝夫が被告会社を出発するに際し、被告会社の取締役松田志げるが被告孝夫に対し「上棟式には酒が出されるけれど一杯だけは失礼になるから戴いて後は絶対禁物ですよ。」と注意したことは認められるけれども原本の存在ならびに成立について争のない甲第七号証の二、被告保坂孝夫及び被告会社代表者各本人尋問の結果によると、被告孝夫は昭和三二年七月二〇日に自動車運転免許を得たがまもなく速度違反の事件を起して家庭裁判所で説諭の処分を受け、その後東京の運送会社に勤めるうち、宇都宮において四輪車と接触事故を起して罰金二、〇〇〇円に処せられ昭和三四年二月一日から被告会社に運転手として勤めることになつた(右日時から被告孝夫が被告会社に運転手として勤めていることは当事者間に争がない。)が、同年七月三〇日から一四日間無謀操縦の交通違反をしたかどにより運転免許停止の処分を受けたことがある。しかるに被告会社においては被告孝夫を運転手として採用するに当り、運転免許証の呈示を求めて交通事犯の前歴の有無を調査することなく単に一社員の知人の息子でかつ運転免許証を得ているとの事情を確かめたのみで、ただちに運転手として採用し、しかも被告孝夫を雇傭したのちにおいても、同人が交通違反の前歴があり運転免許停止処分を受けたことがあることを確知していなかつたことを認めることができ、これに反する証拠はない。以上の事実によると被告会社は被告孝夫の選任、監督につき相当の注意を尽したということはとうていできない。したがつて被告会社の右主張は採用し難い。

六、そこで、まず、損害額について考えるに成立に争のない甲第一号証、証人近藤克己の証言により真正の成立を認める甲第四号証の一、二、同証人の証言ならびに原告久留美和子本人尋問の結果を総合すると亡久留康生(大正一〇年九月二〇日生)は、甲府中学、早稲田大学理工学部を卒業し、昭和二一年から甲府市伊勢町所在武田食糧株式会社に勤務し、死亡当時同社製造課長の職にあつた、同人が同社から支給される給与は、死亡当時基本給、出勤手当、役付手当、家族手当、特別手当を含め月額二七、三五〇円(超過勤務手当等の基準外賃金は含まない。)であり、他に賞与として年額四七、〇〇〇円を支給されていたものであるから、年額合計三七五、二〇〇円の収入を得ていたものである。これに対する同人の生活費は一か月七、〇〇〇円年額にして八四,〇〇〇円を要するものであるから、従つて、同人が死亡することなく生存するとすれば退職時迄に昇給及び賞与の増額を全く考慮しなくても毎年二九一、二〇〇円以上の余剰をあげうるものである。武田食糧株式会社の就業規則によると同社の退職定年は満五五才であるが、技術者は得難い存在であるため定年後嘱託として再雇傭し六五才まで勤務させ原給と同様の給与を支給する例となつており、康生は学歴もあり、製造課長として技術面一切を統括していたうえ人望も厚く、同社々員として極めて重要な人物であつたので同人も六五才までは少くとも右給与を支給せられるものと考えられること。厚生省統計調査部作成の昭和三一年生命表による康生の余命は三二・二三年であり(康生の余命が生命表により右のとおりであることは当事者間に争がない。)六五才より長期である。そうすると康生は死亡当時の三八才二月から六五才まで二六年一〇月間、一年二九一、二〇〇円の割合で計算した額の得べかりし利益を有したものといわなければならない。これを死亡時において一時に支払をうけるものとし、ホフマン式計算法により年五分の割合の中間利息を控除して計算すると、その金額は三、三三五、一一一円である。したがつて康生は被告等に対し右と同額の損害賠償債権を有していたものであり、原告等は康生の遺産相続人であるから、右被告等に対する損害賠償請求債権を相続により承継したものであり、その相続分は原告美和子一、一一一、七〇三円、同文子、敏弘、美喜、由美の四名はいずれも五五五、八五一円である。しかるところ、原告等は、康生の没後本件につき自動車損害賠償保障法により保険金三〇〇、〇〇〇円を昭和三五年支払を受け、ほかに武田食糧株式会社から康生の退職慰労金として四二五、〇〇〇円の支払を受け、その合計七二五、〇〇〇円を相続分に従つて原告美和子二四一、六六六円、その余の原告四名各一二〇、八三三円ずつ受領した。しかして右は損益相殺の理により前記損害額より差引くべき額であるので各自の按分額より差引くと、被告両名各自に対して請求しうる有形損害の額は、原告美和子は八七〇、〇三七円、その余の原告四名はいずれも四三五、〇一八円である。右のとおり認めることができ、この認定を左右しうる証拠はない。

次に慰謝料について考えるに、右各証拠によると、本件事故当時康生は原告等五名を含めた一家の生活の中心であり、その死亡の結果、原告等は一家の支柱を失つて今後の生活の見通しすらたたない窮状に陥つたものであり、しかも康生は温厚善良な市民であつて、原告等のためには良き夫、良き父として精神的にも原告等の最大の庇護者であつた。しかるところ、本件事故により康生と再び相見えるを得ない境遇に陥らせられた原告等の受けた精神的苦痛は測り知ることができないものといわなければならない。かかる事情に前認定の有形損害額ならびに本件に現れた一切の事情を斟酌するときは、慰謝料として被告等は各自原告美和子に対して三〇〇、〇〇〇円、その余の原告四名に対して各一〇〇、〇〇〇円を支払うべきものと認めるを相当とする。

七、以上説示したとおり、被告等は各自原告美和子に対し一、一七〇、〇三七円(有形無形の損害の合算額)、その余の原告四名に対し各五三五、〇一八円(上記同様の損害合算額)及びこれらに対する弁済期の後である昭和三五年二月二一日から各支払ずみまで民法所定年五分の割合による損害を支払うべき義務あるものといわなければならず、原告等の請求は、右の範囲において正当であるから認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条に則り、仮執行はその必要がないからその宣言を付さないこととし主文のとおり判決する。

(裁判官 柳沢千昭)

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